
日本史の問題
はじめに
大学受験様に指導している生徒に対しての小テストを使用しています。そのため、覚えるために特化している内容になります。参考の1つにしてください。
古代史

合計15問になります。合格点はもちろん基本的な内容を網羅しているので満点になります。しっかりと人物や出来事を覚えながら周辺知識を身につけてください。また、繰り返し取り組んでいるので同じ問題も今後出題されることもあります。
1.ナイフ形石器
旧石器時代は日本は大陸と陸続きの時代であり、打製石器を使用していました。特に覚えておく必要があるのが打製石斧、ナイフ形石器、尖頭器、細石器の4種類になります。共通テストでは写真も使用されるので形も一緒に覚えておいた方が良いでしょう。
2.石鏃
縄文時代は磨製石器が使用された新石器時代にもなります。この時代には地球温暖化により縄文海進がおこり現在の日本列島と同じような形になりました。そのため、島国になったこともあり大型動物は減少する一方で、中小型動物が生息していきます。以前は、獲物の大きさが大きかったこともあり捕まえることは容易でしたが、小型動物は追いかけても逃げられます。結果として弓矢が発達することになり、石鏃は矢じりとして使用されることになります。
3.穂首刈り
弥生時代に入ると農耕が本格化していきます。収穫時に使用された道具として石包丁になります。これは写真と併せて覚えてください。穴が開いている所がポイントです。そして、穂首刈りという稲穂の部分だけを収穫する方法が一般的でした。後期になると鉄鎌で根刈りが一般化します。
4.紫雲出山遺跡
弥生時代に紛争があった証拠の1つとして防衛機能をもった集落が登場します。これらの集落は環濠集落や高地性集落として外敵から身を守るために村が建設されます。特に有名なのが環濠集落の佐賀県にある吉野ケ里遺跡ですが、高地性集落の香川県の紫雲出山遺跡も有名なので合わせて覚えておきましょう。
5.円筒埴輪
古墳時代は大きく3つの時代に分類されます。その中で埴輪が使用されたの前期と中期になります。皆さんが想像する埴輪は中期の形象埴輪であり、人の形や馬の形をした埴輪などがつくられます。一方で、前期は古墳の土が崩れないようにする役割もあり簡素な筒状態の円筒埴輪がつくられていきます。
6.安東大将軍
5世紀の日本の様子が記された『宋書』には倭の五王(讃・珍・済・興・武)の名前があり、とくに有名なのは武の雄略天皇になります。倭の五王が朝貢していた理由は鉄資源を求めて朝鮮半島に進出していた日本が勢力争いで有利に立つために朝貢をしていました。結果、雄略天皇は安東代将軍の称号を宋から授かります。
7.新嘗祭
古代の風習として稲作関係は間違えずに覚えておきましょう。春が祈年祭に対して秋が新嘗祭になります。古代の風習は読み方も独特なので合わせて注意もしておきましょう。
ドメインバックオーダー8.蘇我稲目
朝鮮半島では新羅の勢力拡大におされていた百済から軍事支援を求める動きが出ます。そのため、儒学などが日本に伝わりますが、528年・552年に聖明王から日本に仏教が伝えられます。大臣で財政担当であった蘇我稲目は積極的な受け入れ(渡来人が増えればメリットがある)を求めますが、大連の物部尾輿は軍事担当だけではなく日本の神々も担当していたことで反発します。いわゆる、崇仏論争ですが決着がついたのは蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことによります。
9.山背大兄王
蘇我蝦夷と入鹿親子が権威をふるっている中で、聖徳太子の皇子であった山背大兄王が滅ぼされることになります。ただ、蝦夷・入鹿も乙已の変で中大兄皇子・中臣鎌足らに滅ぼされます。
10.八色の姓
672年の壬申の乱では吉野で挙兵した大海人皇子は尾張と美濃で兵を集めて近江大津宮を攻めます。そのため、大友皇子に味方した有力な豪族が倒されたことになり大海人皇子に権力が集中します。そして、身分制の再編が必要となったため後続を中心とした八色の姓を制定します。
11.条里制
班田収授による口分田を配布するための土地の区画は条里制といいます。間違えやすいのは藤原京などの都市区画での条坊制になります。間違わないようにしましょう。
12.長屋王
元正天皇の時代に誰が実権を握っていたか考えれば答えが出ます。この頃は長屋王が実権を握っており、彼の邸宅跡から木簡が大量に発掘されたことでも有名です。
13.藤原房前
藤原四兄弟(四子)は聖武天皇の時代に権力を握りながらも相次いで亡くなります。ただ、子ども達が権力争いを繰り広げることになります。特に優位なのが北家の藤原房前であり道長や頼通に続く祖になります。藤原宇合の式家も有力でしたが嵯峨天皇の時代に薬子の変により没落してしまいます。代わりに、蔵人頭に北家の藤原冬嗣が就いたことで北家が繁栄することになります。
14.恵美押勝
孝謙天皇の時代から権力をに握っていた藤原仲麻呂は淳仁天皇の時代にも重用され恵美押勝という名前を授けられるぐらい権力を持ちました。しかし、光謙太上天皇が道鏡を重用すると立場を失い敗北している。
15.藤原種継
桓武天皇は寺院勢力の拡大を嫌い山背国に遷都を考えていた。その長岡京の造営責任者だった藤原種継が殺害される事件が発生して造営を中止している。犯人とされたのが早良親王であったが護送中に餓死している。